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こころの健康とバリアフリー社会

以下の講演内容は、院長が平成16年10月22日に富山県精神保健福祉大会「こころの健康フェステイバル〜地域でのふれあいをめざして〜」において発表したものである。


心の健康の定義

 心の健康とは、何を意味するのでしょうか。世界保健機関(WHO)は、「健康とは身体的、精神的、社会的に完全によい状態であり、単に病気や虚弱がないことではない」と定義しています。では、心の異常と心の病気は同じなのでしょうか。私たちが、ある人の言動を異常と判断するとき、その根拠は二つあるように思われます。一つは、私たちには理解できない言動である場合、もう一つは、平均からずれている場合です。つまり、正常・異常という判断は、健康・病気という判断とは別の次元の判断なのです。したがって、異常な言動をしていても必ずしも病気であるとは言えませんし、逆に、病気であっても必ずしも異常な言動を示すとは限らないのです。

 では、心の病気がなければ、心が健康と言っていいのでしょうか。池田小学校の事件の犯人は、精神鑑定によって心の病気ではないと判定され、犯行についての責任能力があると判断されました。しかし、あの犯人が健康な心を持っていたと信じる人はいないと思います。また、軽症のうつ病や統合失調症、神経症の人は、病気であっても必ずしも言動が異常なわけではありません。

 それでは、心が健康であるためには、さらにどんなことが必要なのでしょうか。ユヴェナリスという紀元2世紀ごろのローマの吟遊詩人が、「健全な心は健全な身体に宿る」と述べたことは広く知られています。しかし、身体に重い病気を持った人は健全な心を失っているとはもちろん言えません。それは、『五体不満足』という本を出した乙武さんの例を見ても明らかです。しかし、ユヴェナリスの言葉も真理の一面をとらえているように思います。もしそうであるとすれば、心を健康にするためには、日常生活を節制して暴飲暴食を慎み、適当な運動を続けることが大切であるということになります。

 アメリカ人の心理学者であるジャホダが調べたところ、心の健康の定義は80幾つあったそうです。これは、心の健康を定義することは不可能に近いということを意味しています。そこで、彼女は心の健康に定義されている心理的要素を抽出してみることにしたわけですが、その1番めが自己受容、つまり、自分のよいところも悪いところも含めて自分を自分として受け入れることです。2番めが自己が統合されていること。昨日言ったことと今日言うことがまるっきり違ったり、相手によって全く違うことを言うということがない。3番めは現実認識で、現実がしっかりと認識されている。現実の認識が冒される顕著な例が統合失調症です。4番めが自律。自らのことは自ら律していく。5番めが自己実現。己の人生で自分の願いを実現していこうということです。6番めが環境支配、つまり、己の置かれた環境をしっかり自分で押さえておくことです。

 私自身は、アメリカで心の健康に含まれる心理的要素として抽出されたものを、そのまま日本人に当てはめるには、ちょっとなじめない要素もあると考えています。自己受容、自己の統合、現実認識はもっともだと思うのですが、自律、自己実現、環境支配というのは、かなり個人主義社会の要素が強いと思うからです。ほかの人との協調、協力ということが我々の社会では大事にされますし、自己実現という考えについても、自分は本当はこうしたいんだけれど、皆さんそうおっしゃるんだったらそれでいきましょうかというような妥協は、けっこうしていると思います。環境支配も、我々は自然環境、あるいは人的な環境も含めて個人と環境を対立的な概念としてよりも、協調的な関係でとらえている場合が多いと思うのです。

 ここで、心の健康について、フロイトの残した言葉をご紹介します。30年ほど前、私はアメリカで研修医をしていたことがありました。そのとき、ある日のセミナーで、アメリカ人の講師が次のような話をしてくれたのです。

 20世紀の初頭、フロイトは心を科学的に解明しようとしている人として注目を浴びていました。精神分析学が科学として妥当性があるかは専門家の間でもいまだに議論が続いているのですが、19世紀は自然科学が急速に進歩した時代であり、フロイトは自然科学の方法で心を研究しようとしたのです。当時、フロイトはウィーンで開業していたのですが、ある新聞記者があの先生なら心の健康について何か深遠な話をしてくれるだろうと期待して連絡をとったところ、フロイトはその記者をウィーンの駅に呼び出し、「心の健康とは、人を愛し、働くことだよ」という簡単な言葉を残して、車中の人となったというのです。私は、この簡単な言葉が意外と真実を突いているのかもしれないと思っています。

 ところで、現代はストレス社会であり、心の病気が増えているとマスコミは盛んに主張していますが、それは本当に事実なのでしょうか。これに関連して、心の病気がどのように起こるかということについて述べてみたいと思います。

 心の病気は、ストレスだけで起こるものではありません。心理的ストレス、社会的ストレス、脳の働きの不調の三つの要因が相互に影響し合って起こるもので、どの要因が強く働くかはその病気によって違います。

 例えば最近注目されているアルツハイマーや脳血管性痴呆は、脳の神経細胞が脱落していくために起こるわけですから、脳の神経の変化という要因が大きくて、その発症にストレスはあまり関与しないと思われます。また、脳の神経細胞脱落まではいかなくとも、脳神経細胞の働きの不調は、統合失調症の場合にもあると考えられており、そこに心理的・社会的ストレスが加わることが発症の要因になります。実は統合失調症は、移民や海外移住者に非常に多いのです。その人がもし移住しなかったら、発病しやすい脆弱性があったとしても発病しなかったかもしれません。また、うつ病や躁うつ病という感情障害にも脳神経細胞の不調が関係しており、それに心理的なストレスや引越し、職場の変更、転校等の社会的ストレスが加わって発病に至るのだろうといわれています。

 また、不安障害や強迫性障害等の神経症性障害もストレスだけで起こるわけではなく、脳の機能障害も伴っています。また、適応障害は、個体と環境との不調和によるわけで、心理的、社会的ストレスがほとんどの要因です。

 ですから、マスコミが言うように、社会的ストレスが増えたから精神病が増えているというのは本当かどうかは分からないわけですし、実際に実証することも不可能なのです。なぜかというと、100年前には現在の精神科の診断基準も心の病気、精神疾患の統計もありませんでしたから、本当に増えたかどうかは分からないのです。

 人は異常な言動に気づくと、その性質と原因を説明しようとします。その説明のしかたは、いろいろな文化によって異なります。私は台湾出身で現在ハワイ大学の教授をされているチェン博士に比較文化精神医学というのを1年間教わりに行ったのですが、そのチェン博士に従って、いろいろな文化圏によって異なる異常な言動の解釈を分類すると、次の四つの分け方があるということです。

 一つは、「超自然的解釈」です。それは、祖先霊がついた、悪霊がついた、先祖の崇り、誰かの呪いという解釈が行われる文化です。日本や西洋の歴史でも、このような考え方が自然科学が台頭する以前はごく普通にありました。例えば中世ヨーロッパの魔女狩りがそうです。日本でも、祖先霊がつくとか、崇りだという考え方は、かつてはかなりよく見られました。しかし、日本では西洋の魔女狩りのような考え方で、精神病者を殺してしまうという歴史はなかったようです。

 そういう考え方はだんだん少なくはなっていますが、今でも青森県の下北半島の巫女「いたこ」が霊を呼び寄せるとされています。それは精神疾患だけが対象ではないのです。体の調子が悪い人は「いたこ」のところへ行くと、「何代前の先祖の霊がたたっているんだ。だから、先祖の霊を慰めてあげなさい」と言われるそうです。また、沖縄の「ユタ」というのも同様な巫女です。さらに、我々だって、体や精神的な調子が悪いとき、お宮さんに行ってパッパッと御祓いをすることをやっています。

 2番めは「自然的解釈」で、風水の位置が悪いとか、陰陽が悪いとか、方位がどうだとか。つまり、病気であるかどうかは、自分あるいは自分の家、自分の家族を含めた一つの自然体系の秩序が崩れているのだという解釈です。

 私は子供のころに富山県に住んでいたとき、どこどこの家は玄関の方向が悪いから病人が多いとか、そういう話をよく聞かされました。また、家を建てるについて占いに行ったり、どういう方位に玄関を造るとか、台所はどこにするかとか、相談に行っている人がたくさんいました。

 3番めの「身体的・医学的解釈」というのは、体の調子が悪いから心の病気になるのだという解釈で、4番めの「社会心理学的解釈」というのは、今マスコミが言っている、ストレスがあるから病気になるのだという話です。現代の精神医学は、この3と4が合わさって病気が起こるという解釈をとっているのです。

 私は今から20年ほど前、パプアニューギニアに比較文化精神医学の研究班について行ったことがあるのです。ニューギニア高地の、ジャングルの中の小さな町でしたが、そこでは気がふれた人が出ると、町の人は「その人の魂が取られたからだ。その取られた魂はジャングルに行っているから、我々はその魂を取り戻してくるんだ」と言って、ジャングルへ魂の捜索に行くという話でした。この話の面白いところは、その町の気のふれた人を町全体で何とか救出しようとしているということです。このように、心の病気の原因についての解釈は文化によって異なっており、それらの解釈は一つの文化圏の中でも混在していて、それぞれの解釈によって、その治療法も異なっているのです。

 現代の日本社会では、より多くの人々が心の病気の原因を脳の働きの不調とストレスによると考えて、その治療を求めて病院や診療所を訪れるようになりました。つまり、心の病気が増えているのは、その原因についての解釈が時代とともに変化して、医療機関への受診者が増加したことにもよると考えられます。確かに医療機関への受診者が増えているのは事実で、厚生省が3年ごとに発表している患者調査の平成11年のものによると、入院患者は約33万人で通院患者が200何十万人、合計すると250何万人にのぼるそうです。

 そこで、現代が本当にストレス社会なのかどうかも考えてみたいと思います。まず、人々がどんなときにストレスを感じるのかを、マスローという心理学者の欲求階層説に従って述べてみます。

 マスローの欲求階層説とは、人間には基本的に五つの欲求があって、最下層から順番にその上の階層の欲求を満たそうとするというものですが、そのいちばん下の段階の生理的欲求というのは、食欲、性欲などの人間の生物としての基本的な要求です。そして、その上が身の安全を求める欲求で、その上が愛と所属の欲求です。つまり、だれかに愛されていたい、村や会社に所属していたいということです。その上が承認の欲求で、自分の能力を認められたい、自分の美貌を認められたい。そして、それが認められると、今度は自己実現の欲求が出てきます。つまり、自分の人生を充実したものにしたいと考えるようになるわけです。そして、これらの欲求が満たされないと、それは当然ストレスになります。

 ストレスという説を最初に唱えたのは、今から50年ほど前のハンス・セリエという医師ですが、彼自身、ストレスはいかなる時代でもあったと言っています。現代が特別ストレス社会ではないかもしれないというのは彼の考えなのです。狩猟採集の時代には、生理的欲求、安全の欲求、愛と所属の欲求が基本的欲求だったと思います。安全の欲求とは、ほかの部族や動物に襲われるのではないかとか、病気になるのではないかという不安から生まれるもので、愛と所属の欲求は、部族社会の中から仲間外れにされないようにとか、タブーを守るというものでしたが、農耕時代になると、それが村八分にされないように村の規則を守るようにという圧力になりました。それは当然ストレスになったと思いますし、原始時代のタブーも人間の欲求・欲望から反している場合が多いわけですから、ストレスはいつの時代にもあったと考えられます。

 また、封建時代になると、領主の下で自分の地位を求めるとか、領主や名主の地位を求めるとか、あるいは農耕の土地を保証されることなどが必要で、それがストレスになったと思います。

 さらに現代は、自己実現を求める時代です。幸いにして今の日本は生理的欲求や安全の欲求は充足されている社会なので、その上の三つの欲求が中心になります。しかも、最近は自己実現の欲求が非常に強いわけです。一生のうちにこんなことをしたい、あんなことをしたい、自分の夢を実現したい。しかし、この自己実現の欲求は、ある意味で非常に難しい欲求だと思うのです。なぜかというと、上限がない欲求であるからです。生理的欲求や安全の欲求は充足されるという上限がはっきりしていますが、自己実現の欲求はあるところまで実現すればさらに上を次々と求めるということで、ストレスが持続しやすいわけです。ですから、この持続しやすいということが、むしろ現代社会のストレスの特徴ではないかと

思うのです。

 それが病気として現れているのが心身症ではないでしょうか。心身症というのは、持続的なストレスが加わった結果として起こる身体的な疾患のことですが、現代はアレルギー疾患や喘息などの心身症が非常に多いといわれています。

 お釈迦さまが紀元前5世紀ごろに現れて仏教を開いたとき、その当時の社会は苦の世界であると言われました。つまり、社会を生きることは苦である、生老病死の全部が苦の世界であると言われ、それから解脱する方法として仏教を開いたわけです。ですから、いつの時代に生きている人も、その時代を苦と考えていたのではないかと思うのです。

 江戸時代の近松門左衛門の世話物も、個人の欲望と封建時代の義理と人情の世界観との相克によって起こったことを物語にしています。また、その前の時代の鴨長明の『方丈記』は、神社の息子として生まれたが跡継ぎになれなかったので、その苦痛を逃れて小さな庵を造って、そこで生活したということですよね。だから、いつの時代も、ストレス社会であったのではないかと思うのです。

 あるとき何かの取材で来たマスコミの人が「現代はストレス社会で病気の人が多いんでしょう」と言うから、「そうでしょうかね。では、あなたは戦前の日本か江戸時代に生まれてみたいと思いますか」と言うと、「そうですね・・・」と考え込んでしまいました。

 また、ストレスがない社会が理想的な社会かというと、そうでもないようなのです。生物としての人間を見ると、適当なストレスがあることが人間の成長になっていくのです。ストレスがまったくない社会はありえないのですが、もしそういう環境があったとしたら、それは人間の発達を止めてしまうといわれています。だから、ストレスから離脱しようとする必要は必ずしもないのかもしれないなと私は思います。

 そこで、なぜ生きている人は、自分の生きている社会について不満を持っているのかについて、ちょっと考えてみたいと思います。

 フロイトは、『文化への不満』という著作の中で、「人々がその所属する文化に対して不満を持つのは、それぞれの文化規範の中で性の衝動や攻撃の衝動のような本能的欲望が抑制を受けているからである」と述べています。原始民族にもさまざまなタブーがありました。フロイトは、「この世のいかなる文化に所属する人々も、その文化に対する敵意から逃れることはできない」としています。このように、いずれの時代に生きる人々にも、いずれの文化に生きる人々にもストレスはあったのですが、そのストレスの様式が異なっており、どの時代を生きる人も、その時代をストレスの多い時代であると感じていたのではないでしょうか。

 そのことは、我々の祖父母や父母の世代の人からの言葉からさえ伺い知ることができます。例えばおじいさん、おばあさんと同居されている人は、「今の若い人たちはいいわね。自分のやりたいことはできるし、いろんな制限もないし」という言葉をよく聞かされると思います。つまり、おじいさん、おばあさんも、きっとストレスの多い社会を生きてきたのだなと私は思うのです。

 いつの時代もいつの社会にもストレスは存在し、心の病気も存在してきました。それは単に怖いもの、不気味なもの、異常なものではありません。したがって、私たちは心の病気に対して適切に対応していかなければならないのです。心の病気の対応は、精神医学の世界では、一次予防、二次予防、三次予防という考え方でいわれています。一次予防というのは病気の発生を予防することで、精神科の病気でいえば、脆弱性があってもそれが病気にまでならないように、育て方や環境を整えていくことが大事だということです。

 また、二次予防とは、病気になってしまっても早くその病気を治してあげる、病気で苦しむ期間を短くしてあげるということです。実は精神疾患について、早期発見、早期治療の必要が強調されるようになったのはごく最近のことで、統合失調症についても早期発見、早期治療のほうが経過がよいことが実証データとして分かったのが、この10〜20年ほどのことなのです。早期発見、早期治療が精神医学の領域でずっとないがしろにされてきたのは、人権の問題があって、本人が病気でないと言っているのをどうやって治療するかという問題とも関係しているのですが、今後バリアフリー社会の方向へ行くとしたら、この二次予防の考え方が実現できるような体制が作られていくことも非常に大事だと思います。

 そして、三次予防というのは、リハビリテーションのことです。つまり、病気になったあとは障害を残すことがあるわけです。脳卒中のあとと全く一緒です。しかし、心の病気の場合には、体の麻痺のようにはっきり目に見えないために、リハビリテーションがおろそかにされがちなのです。

 次に、なぜ心のバリアフリーが必要かについて少しお話しします。

 心の病気でも早期発見、早期治療が必要なのですが、偏見の強い社会だと病気を隠そうとします。ですから、医療の側からもバリアフリー社会が必要だということです。そこで、世界保健機関から2001年に出された国際生活機能分類に従って、バリアフリー社会が人々の心身の機能・活動にどのように影響しているかを見てみましょう。

 21年前に出された国際障害機能分類では、疾病→心身の機能障害→活動障害→社会参加ができなくなるという単線構造で表されていたのですが、先ごろ障害分類だけでは心身の機能を表すのには不適切であるということで改編され、今は矢印が両方向に向いているのです。つまり、活動が制限されている状態では心身の機能も悪くなるだろう、病状が残っていれば心身の健康状態も悪くなるだろうという相互作用を見ているのです。さらに、今回の改訂では環境要因が加わり、名前も障害分類ではなく生活機能分類になりました。それから、個人的な要因で、その人が障害に対してどのような認識を持って、どのように取り組んでいるか。それもその人の活動に影響を与え、その活動がまた個人的要因に影響し、環境要因にも影響する。そういう相互関係の中で生活機能は考えられるべきだということになったのです。つまり、心身の働きに環境が大きく影響するのです。

 最後に、明治36年に生まれ、大正時代に深い仏教信仰に根ざした美しい童謡詩をたくさん残して、昭和の初めに26歳にして世を去った金子みすずの童謡詩の一つを紹介したいと思います。

 金子みすずは、山口県の小さな漁港で生まれ、小さいころから家族に連れられてお寺参りをしていました。仏教の教えは、「山川草木悉皆成仏」、つまり、生きとし生けるものはすべて極楽往生することになっているのだということが中心になっていますが、彼女の詩にはそれが表れています。私は、それがバリアフリー社会の考え方の根底にあってもいいのではないかと思っているのです。私の考えるバリアフリー社会とは、社会の人々が心の病気について正しい理解と知識を持っているだけではなく、次の詩に述べられているような世界ではないかと思うのです。

【私と小鳥と鈴と】

 私が両手を ひろげても、

 お空は ちっとも飛べないが、

 飛べる小鳥は 私のように、

 地面を 速くは走れない。

 私が からだをゆすっても、

 きれいな音は 出ないけど、

 あの鳴る鈴は 私のように

 たくさんな唄は 知らないよ。

 鈴と、小鳥と、それから私

 みんなちがって、みんないい。

質疑応答

(フロア) 私は障害者なのですが、たまたま今年の7月にものすごく自己を責めることがあって、自分で死にたいと思ったのです。だれからも認めてもらえないなあと思って、1か月ほど寝込みました。今年の正月からたまたま宗教的なものに凝りだしまして、ちょっと深入りしすぎているような気がするのですが、こういう場合はそういうものも必要なのではないかと感じています。それでよろしいのでしょうか。

(江畑) 先ほど、心の病気の解釈は文化によって異なっているから、当然その対応も異なるとお話ししました。ただ、私は宗教は治療手段ではないということを強調したいと思います。最近癒し文化というのがはやって、何とかすれば魂が救われるとか、病気が治るとかといわれていますが、病気にはやはり医療が必要なのであって、宗教によって病気を治すことはできないと思うからです。

ただ、病気が治った人が一人の人間として心が統合されて生きていくときには、何か確信となるものが必要だと思うのです。それは病気のある人でもない人でも必要なんだと思うのですが、病気があれば心は乱れやすいので、なおさら必要だと思います。そういう意味で、今、少し宗教に深入りしすぎるかもしれないとおっしゃいましたが、宗教によって病気を治そうとするのでなければ、それは大事なことではないかと思います。


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