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心の健康とは

 この文章は、院長が東京都立中部総合精神保健福祉センター所長に在任中に、東京都民に対する精神保健の啓発冊子「心の健康ミニ知識(改訂版)」に書いたものです。

はじめに WHOの健康の定義から
心の病気は本当に現代に多いのか
心の病気の発生は国や地域によって異なるか
心の病気がないことと健康な心とはどのように異なるか
おわりに フロイドが残した言葉

 


はじめに WHOの健康の定義から

 世界保健機構(WHO)は、「健康」とは、「身体的、精神的、社会的に完全に良い状態であり、単に病気や虚弱がないことではない」としています。しかも「到達できる最高水準の健康を享受することは、人種、宗教、政治的信条、経済的ないし社会的状態のいかんを問わず、すべての人間の基本的人権の一つである」としています。つまり健康を享受するこは、私たちの基本的人権の一つなのです。「健康」がこのように定義されても、「心の健康」が明らかになったとは言えません。そこで「心の健康」について、少し考えてみたいと思います。

 一般に人々は、ある人の言動に問題を感じた時に、正常か異常かと議論している場合があります。その場合に、正常か異常かの判断には、その議論している人々の考え方や感じ方からは理解しかねるとか、理解はできるが普通の人間の言動ではないとかといった根拠に基づいていると思われます。すなわち正常か異常かは、理解できない言動である、あるいは平均的人間の言動からずれているという判断に基づいていて、健康か不健康か、あるいは病気か病気ではないか、という根拠に基づいているわけではありません。このように正常か異常かは、健康か不健康か、あるいは病気か病気ではないか、ということとは別の次元の判断なのです。したがって異常な言動を示していても必ずしも病気であるとは言えません。逆に、病気であっても必ずしも異常な言動を示すとは限りません。 

 また普通の人の平均的言動からのずれているからと言っても必ずしも病気であるとは限りません。病気ではあっても、普通の人の平均的言動とずれのない場合があり、逆に、平均的に見て著しく逸脱した言動を示していても病気ではない場合も見られます。

心の病気は本当に現代に多いのか

一般に、現代社会はストレスが多く心の病気も多いと信じられていますが、果たして本当にそうなのでしょうか。心の病気には、大きく分けると二種類あります。

一つ目は、心理的あるいは社会的ストレスよりも脳の変化が主な原因と考えられている精神分裂病や躁うつ病などです。これらの心の病気が現代になって多くなったとは考えられていません。

二つ目は、脳の変化よりも心理的あるいは社会的ストレスが主な原因と考えられている適応障害や神経症あるいは心身症などです。これらの心の病気は、それぞれの時代において、その症状や現れ方が異なっていることは知られていますが、それら全体の発生頻度が増加したとは必ずしも言えません。

それぞれの時代には、それぞれの時代の心理的ストレスならびに社会的ストレスがあり、いつの時代にもその時々に生きる人々の不安や苦悩を反映した適応障害や神経症などがあったと思われます。狩猟や採集をしていた人々にとっては、その日の糧を得ることができるかどうかの不安や動物に襲われたりする不安などがあったに違いありません。農耕時代に生きた人々には、水田に引く水を争ったりの葛藤、小さな閉鎖的な村落において村八分にされないかとの不安、あるいは過重な年貢に不満を感じたりすることもあったに違いありません。封建時代に生きた人々には、近松の作品に見られるように義理と人情の軋轢に苦悩した人々も多かったに違いありません。それぞれの時代に生きる人々には、それぞれの心理的ストレスや社会的ストレスがあったに違いありません。そのことは、いつの時代にもどこの文化においても、それらのストレスからもたらされる人間的苦悩からの解脱の道の一つとして宗教的活動が見られることからも知られるように思われます。

このように人間に普遍的と言えるストレスはどこからもたらされるのでしょうか。人間は、次に述べるような欲求の充足が得られないとストレスを感じると考えられます。

マスローは、人間の欲求には5つの階層があり、人は低次のものから先に満たそうとする傾向があるとしています。

その5つの欲求の階層の中で最も低次のものは、食欲や性欲などの「生理的欲求」です。それらが充足されると、次に「安全の欲求」の充足を求め、次に「愛と所属の欲求」の充足を求め、次に社会的な役割や地位などの「承認の欲求」の充足を求め、最後に最も高次のものとして個々人はその心の成長の頂点として「自己実現の欲求」の充足を求めるとしています。

これから見ると、狩猟と採集の時代には、生理的欲求や安全の欲求をめぐるストレスが多かったに違いありません。義理と人情の軋轢の強かった時代には、愛と所属の欲求をめぐるストレスが多かったに違いありません。

現代の日本では、幸にして生理的欲求と安全の欲求をめぐるストレスは少ないのですが、承認の欲求や自己実現の欲求をめぐるストレスが多い時代であるように思われます。このようにそれぞれの時代の人々は、それぞれの時代のストレスにさらされながら不安と苦悩を負って生きてきたのであろうと思われます。

 ところで生理的欲求や安全の欲求には限度があり、それらが充足されるとそれ以上の充足はまず必要ありません。しかし現代のストレスの基盤となっている承認の欲求や自己実現の欲求は、ある程度充足されると、さらにそれ以上の充足を求めると言った具合に、その充足には際限がない傾向があります。そのために、ストレスが持続しやすいと言えます。現代において心身症が多いのは、このような持続的ストレスが関連しているのではないかと思われます。

国や地域による心の病気の発生の違い

マーフィーは、精神分裂病の発生が国や地域によって多少異なるとしています。それの多い国はそれの少ない国に比べて、次のような特徴があるとしています。

その一つは、自然の恵みが乏しくて、闘争的な伝統が醸成されていて、勝つか負けるかといった態度が人間関係に現れがちであることです。

二つ目は、母親のイメージに違いが見られ、受容し許容してくれる存在というよりは、むしろ要求がましく挑発的な存在と見なされていることです。

三つ目は、ささやかな成功あるいは慎ましい報酬で満足しない傾向があることです。逆に言えば、精神分裂病の発生の少ない国の特徴は、人々の間に競争よりも協調が尊重され、母親は子供に対して要求がましくなく、人々は慎ましい成功に満足する社会であるとしています。

心の病気がないことと健康な心とはどのように異なるか

 はじめに述べましたように、心の病気がないからと言って、必ずしも心が健康であるとは言えません。しかし「心の健康」を定義することは体の健康を定義することよりも遥かにむつかしいのです。「心の健康」を定義しようとすると、そこに人々の生き方や価値観が含まれる恐れがあるからです。

 1954年アメリカのジャホダは、その当時の心の健康についての著述を総覧し、心の健康には次の6つの心理的意味が含まれていたとしています。自己受容、自己実現、自己の統合、自律、現実認識、環境支配の6つです。

 しかしここに見られる自己実現、自律、環境支配などは、協調や自然との調和よりもむしろ競争的で挑戦的です。これらは、むしろ先にマーフィーが精神分裂病の多い国の特徴とした内容と類似しています。そこにはアメリカの人たちの価値観が現れているからであると言えるのかも知れません。あるいは心の病気が少ない精神的風土とより健康な心の風土とは異なるのかもしれません。 

おわりに フロイドが残した言葉

 心の健康をそれぞれの国の価値観や生き方に囚われずに定義することが困難であるにしろ、心をより健康に過ごすことができないものでしょうか。ここではその参考として、二つのことを述べておきたいと思います。

 紀元二世紀のローマ詩人、ユウェナーリスは、「健全な心は健全な体に宿る」と述べたことは広く知られています。身体に重い病気を持った人は健全な心を失っているとはもちろん言えませんが、ユウェナーリスのこの言葉は真理の一面をとらえていることは事実であるように思われます。とすれば、心を健康にするためには、身体を健康にするように努めれば良いということになります。つまり日常生活を節制し、暴飲暴食を避け、適度な運動を続けることが大切であるということになります。

 最後に、心の健康についての一つのエピソードを紹介したい。かつて私がアメリカで研修医をしていた時、ある日のセミナーで一人の講師が次のように語ったことを思い出します。二十世紀の初頭、フロイドが心を科学的に解明しようとしている人として人々に注目されていた時、ひとりのジャーナリストがこのフロイドならば、心の健康について何か深遠な話をしてくれるだろうと期待し、ウィーン駅からまさに講演旅行に出発しようとしていたフロイドを駅のホームで捉えました。そして、「心の健康とはどんなことですか」とフロイドに追いすがりながら尋ねたという。それに対してフロイドは「人を愛し、働くことだよ」との簡単な一言を残して、車中の人となり、彼の列車はホームから静かに消えて行ったという。


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